現代のように精密な計測機器やその方法が確立されていなかった江戸時代に、徒歩で日本中を回り日本地図を完成させてしまった男、伊能忠敬。
かれの作った地図は現代の精密な計測技術をもって作られた地図と比較してもそん色ないものでした。
計器も何もない時代に伊能忠敬はどのようにして正確に日本の国土を計測することができたのでしょうか?
今回は、人間が必要によって生み出した知恵の結集と現代にも通ずる新たな計測技術について、日本地図の生みの親、伊能忠敬を題材にお話ししていきます。
このページの目次
伊能忠敬とは?
まずは、伊能忠敬という人物についてご紹介します。
伊能忠敬はもともと現在の千葉県にあたる地域の出身で、家業は酒屋でした。17歳の時に伊能家に婿養子として迎えられ、以後隠居するまでの間長年に渡り商人として過ごします。
隠居後に天文学者に弟子入りをし、その師の教えとかねてから備わっていた数学的な理解力をもとに、様々なことに挑戦をします。
幕府からの要請によって始めた測量については、当時としては最先端の測量技術を用いて日本中を測量し、近代日本地図の作成に大きく寄与した人物です。
また、現代でも日本の時刻の基準のなっている標準時子午線は伊能忠敬によって制定されたものです。
伊能忠敬の測量法とは
大した測量機器もない時代に伊能忠敬はどのようにして、正確かつ迅速に測量を行っていたのでしょうか?
当時の測量の基本は、基準となる長さの棒(のちに鎖)や基準の長さの麻ひもなどを用いた非常に簡素なものでした。
もちろん現代のような三角測量のような技術もありません。
しかし、後に近代になって策定された日本地図は江戸時代に伊能忠敬が策定した地図と大きな差はありませんでした。
いったいどのようにして正確な測量を行っていたのでしょうか?
そしていったいどのような測量機器を用いて、測量を行っていたのでしょうか?
長さの基準とした鎖
従来の測量では麻縄のような素材のひもが測量の基準長さとして用いられていましたが、天候や湿気に左右されるなど、不確かな要素が多いとして伊能忠敬の発案によって金属製のくさりで作られたものが使用されました。
測量の基準となる方位を確かめる方位磁針
杖先磁石と呼ばれた方位磁針です。測量では変化のなるべく少ないものを計測の基準対象とするために、しばしば天文学の要素が用いられます。
恒星の位置関係を確認したり、自身の向いている方向や進んだ方向を確認するために用いた道具です。
現代で言えばロードメジャー!?
伊能忠敬は現代で言えばロードメジャーのような機構を持った器具も開発し使用していました。
「定量車」と呼ばれる距離を測る道具で、歯車の組み合わせによって実際に走らせた距離を測ることができる道具です。
傾斜を測る分度器?
測量では地表面の高低も重要な要素となります。そのため分度器のような傾斜の角度を計測する器具も使用されていました。
遠く離れた山などの方位を確認する
遠い距離にある山などの方位を確認するための道具で、分度器に方位指針がくっついたような構造の道具です。現在で言えば「アリダード」のような役割を果たしていました。
緯度や経度を星空から確認する道具
測量では自分がいま地球上のどの位置に似るのかを正確に把握することが重要となります。そのための基準として用いられるのが恒星などの天体です。
その天体を基準に今、自分のいる場所の緯度や経度を確認するための道具です。
不足を知恵で補う柔軟さは、現在の高度なモノ作りにもつながる!
今回ご紹介した伊能忠敬が測量に使用した多くの計器や道具は、その多くは天文学などの分野でもともと使用されていたものです。しかし測量を行うにあたり使い勝手が悪かったり、不便であるものが多くありました。
そんな時、伊能忠敬は自身の発案によってそれらの道具を進化させたり変化させたりして、確実な測量が簡単に行えるよう工夫を繰り返していました。
日本は資源に乏しく、様々な面で資源国や工業の歴史の古い国たちと比較して長きにわたって出遅れていました。
しかし、戦後の高度成長期には多くの人々の様々な努力や改革・革新的なアイディアによって目覚ましい工業発展を成し遂げます。
その姿勢はかつて伊能忠敬が苦労の末に日本地図を完成させた功績にも通じるものがあります。
「無いから作れない」ではなく、アイディアと努力で解決策を導く姿勢こそ、日本のものづくりの原点ではないでしょうか?